アンコール遺跡群ガイド |
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![]() ![]() カンボジアにいつごろから人が住み着いたかは定かではないが、紀元前4200年頃と推定される、カンボジア北西部のラアン・スピアンの洞窟から人間の生活の痕跡が発見されている。 ![]() 現在分かっている中でカンボジアの最初の国家は扶南(ふなん)国といわれで、メコン川下流(カンボジア、ベトナム南部)にあったと見られている。 インドと中国の海洋貿易の中継点として栄え、文化なども両国の影響を多く受けていた。また、ローマ帝国の通貨が発見されたことから、幅広い交易が行われていたと考えられている。 6世紀になると、メコン川中域に真臘(しんろう)と呼ばれる国家ができた。当初は扶南国の属国であったが、次第に勢力をつけ、7世紀には逆に真臘が扶南国を併合した。 真臘は後に、陸真臘と水真臘に分裂してしまう。707年頃のことである。 ![]() ![]() 1177年、隣国で勢力をつけてきたチャンバ王国にアンコールの地が占領されてしまうものの、勢力を回復し、1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世は逆にチャンバ王国に侵攻しこれを陥落させている。1199年のことである。これよりクメール王朝最大の繁栄を迎える。1219年にジャヤーヴァルマン7世が死ぬと、クメール王朝は次第に国力が衰退し、1431年にアユタヤ王朝にアンコールの地は蹂躙ると、アンコールの地は放棄され首都をプノンペンに移した。 ![]() 15世紀から19世紀にかけ、ベトナムとシャム(アユタヤ朝・バンコク朝)の侵攻が繰り返され次第に国土が削られてていき、ベトナムとシャムの二重支配に陥った。 1845年に即位したアンドゥオン王は1853年にひそかシンガポールのフランス領事を通しナポレオン3世に接近しようとしたが、事前に情報がシャムに漏れ失敗に終わっている。 ![]() 1863年アンドゥオン王の子ノロドム王は、インドシナを植民地化していたフランスと保護国条約を結び、フランスの支配下となった。その後、1887年にはフランス領インドシナ連邦の一部に組み込まれフランス支配が強化された。 第2次世界大戦で日本軍のインドシナ侵攻にともない、ノロドム・シハヌーク王は1945年12月にカンボジアの独立を宣言するものの、日本軍の敗戦によりフランスの保護下に戻り独立は消滅してしまった。 その後、1949年にはフランス連合内での独立を回復したが、司法権・警察権・軍事権はフランスに残されたままとなったが、シハヌーク王の交渉により、1953年には司法権・警察権・軍事権を回復し、完全な独立を果たした。 ![]() シハヌーク王のもとカンボジア王国として独立を果たすと、非同盟・中立を国是とした政策を推し進めていく。その表れとして、1955年にインドネシアのパンドンで開催された非同盟・第三世界を目指したアジア・アフリカ会議に参加し、シハヌーク王は非同盟・中立外交政策を表明している。 同年シハヌーク王は国王の座を父親であるノロドム・スラマリット殿下に譲り、自身は「人民社会主義共同体(略称サンクレム)」を組織し、その総裁に就任した。 1960年にノロドム・スラマリット王が死去すると、王位を空位にし、新たに「国家元首」という位をつくり就任した。 1965年にアメリカによる北ベトナム空爆がおきると、シハヌークはアメリカを非難しアメリカと断交を宣言するものの、1970年に親米派のロン・ノル将軍により外遊中のシハヌークは国家元首を解任されてしまった。 ロン・ノル将軍のクーデターによりカンボジア王国はクメール共和国となった。シハヌークは北京へ脱出し「カンプチア民族統一戦線」を結成し、ポルポトらが主導する共産主義勢力「クレールルージュ」がこれを助けたことにより、カンボジアは内戦に入っていく。 アメリカ軍がベトナム戦争に敗北し撤退すると、ロン・ノル勢力は急激に弱体化し、1975年4月17日、ロン・ノルはハワイに亡命した。 1976年にはクメールルージュは首都プノンペンに侵攻し、国名を民主カンプチアと改称した。クメールルージュは、反体制派の大量処刑、都市部の住民の農村への強制入植、通貨の廃止、教育の制限、宗教の禁止などの原始共産主義社会の政策を急進的にすすめ、君主制の復古を狙うシハヌークを自宅に軟禁した。 1978年12月25日、ベトナムは同国に亡命中であったヘン・サムリンが率いる「カンプチア民族救国統一戦線」を支持して、カンボジアに侵攻を開始した。翌年1月7日にはプノンペンが陥落し、1月10日に親ベトナム国家であるカンプチア人民共和国の樹立を宣言した。しかし、このカンプチア人民共和国は世界各国の承認を得られなかった。シハヌークは再び北京に亡命した。 1982年7月、反ベトナム勢力の三派、シハヌーク派、ポルポト派、ソン・サン派が結集。「民主カンプチア連合政府」を成立させ、ヘン・サムリン政権と内戦状態となった。連合政府はASEAN諸国や中国に支持されるものの、カンボジアの実効支配には程遠い状況であった。 1990年6月4~5日、内戦の終結を目指す各派は、東京で「カンボジアに関する東京会議」に臨み、続いて1991年10月23日にパリで「カンボジア和平パリ協定」が参加19カ国の代表により調印され、ここに内戦が終結した。これに基づき、フン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた四派によるカンボジア最高国民評議会(SNC)組織され、暫定政権が発足、また、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が組織され、事務総長に日本人の明石康が就任し、カンボジアの平和維持活動を行った。 1993年5月に総選挙が実施され、シハヌークの次男ラナリットが党首を勤めるフンシンペック党が全120議席の内、58議席を占め第一党となった。尚、第二党はフン・セン率いるカンボジア人民党が51議席を獲得した。この結果、、第一首相にはラナリット、第二首相にはフン・センの二人首相制の暫定政権となった。同年9月23日には新憲法が制定され、9月24日にはシハヌークが国王として再即位し、ここに「カンボジア王国」が成立した。 2004年10月14日、シハヌークは国王を退位、息子のノロドム・シハモニが即位した。 ![]()
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